人は、睡眠と覚醒を繰り返す。
日常的な行動の仕組みは、実は“神経科学最大のブラックボックス”。
なぜ、私たちは眠らなければならないのか?
1998年、睡眠研究に大きな変化をもたらしたのは、
睡眠や覚醒に深く関わっている神経伝達物質「オレキシン」の発見。
オレキシンの発見者である
筑波大学国際統合睡眠医科学研究機構(WPI-IIIS)機構長の柳沢正史さんは、
睡眠の謎解明に挑み続ける一方、
睡眠障害の診療に貢献すべくベンチャー企業を立ち上げた。
◆睡眠時間の短い国、日本。睡眠不足は判断力や健康にも影響
日本では、仕事と私生活とのバランスを取り、
心身の健康を維持することで、QOL(Quality of Life:生活の質)を
向上させることに重きが置かれるようになってきた。
QOL と深い関わりがある健康を意識する時、
睡眠のことを気にかける人は多いだろう。
柳沢さんは、「日本は、最も睡眠不足な国である」と危機感を訴える。
「幼児も就寝時刻が遅くなり、睡眠不足は子どもの頃から始まっている。
これは、人生に大きな影響を与えてしまう」
睡眠不足が続くと、注意力や判断力が低下する。
高血圧、糖尿病、動脈硬化などの生活習慣病を発症させる危険性があり、
寿命を縮めるという報告も多い。
「疫学的には、睡眠と健康は関係がある。
メカニズムは、ほとんど何も分かっていない」
◆睡眠の謎 「機能」と「制御」
一つは「睡眠の機能」。
睡眠中に何かが脳内で回復していると考えられるが、
具体的に何が回復しているのか、
どうして睡眠が必須なのかは分かっていない。
「眠っている間も脳の代謝率は低下しないので、
単に休んでいるわけではなく、コンピューターに例えれば、
オフライン・メンテナンスのモードだと考えられるが、
具体的に何が起こっているかは分からない」
もう一つの謎は「睡眠の制御」。
人間でも、動物でも、毎日の睡眠量はほぼ一定に保たれている。
寝不足になると、その翌日は眠くなってたくさん寝る。
睡眠には恒常性があるが、睡眠量を調節するメカニズムは分かっていない。
「睡眠の制御と密接に関係しているのが眠気。長く起きていたり、睡眠が足りなくなったりしてくると、眠気が増して、最終的には眠ってしまう。この眠気が脳内でどのように制御されているのか、睡眠と覚醒を切り替える脳内のスイッチと、どのように結びついているかは、まったく分かっていない」
睡眠は、日本庭園などに使われている「ししおどし」で考えてみると分かりやすい。
ししおどしは、竹筒に少しずつ水を入れていき、
いっぱいになると、その重みで竹筒の頭の方が下がる仕組み。
ししおどしに水が入る状態が、人間でいうところの覚醒状態で、
竹筒に入る水が眠気だ。
人間も起きている間に、だんだんと眠気が増え、
眠気にあらがえなくなると竹筒の向きが変わるように、一瞬で睡眠状態に。
睡眠によって、眠気が解消されることで、再び覚醒状態となる。
柳沢さんはマウスをモデル動物として、
睡眠に関するこれら二つの謎に挑んでいる。
なぜ、マウスなのだろうか。
「ヒトやマウスに限らず、中枢神経系を持っている動物はすべて眠る。
より小さくて単純なショウジョウバエや線虫を使って
睡眠の研究をする人たちもいる。
それらは脳波を測ることができない。
行動学的に動いていないことを睡眠とみなすため、正確性に欠ける。
マウスは脳波を測ることができるので、
人間と同じように睡眠状態を脳波で見極めることができる」
マウスで発見した生化学的なメカニズムは、ヒトにも応用しやすい。
◆睡眠研究へと導いた「オレキシン」の発見
1987年、血管を収縮させる作用をもつエンドセリンという物質を発見、
1991年、アメリカのテキサス大学に迎え入れられた。
まず、エンドセリンに関連する物質を一つ一つ調べていく研究に取り組んだ。
この研究のゴールが見え始めると、
柳沢さんは新たな研究テーマを探るようになった。
そこで目を付けたのが、「オーファン受容体」。
受容体というのは、細胞の表面などにあって、
特定の物質を受け取ることで、決まった働きをする。
受容体の中には、まだどのような物質を受け取って、
どのような働きをするのかがはっきりとしていないものもある。
オーファン受容体とは、そのような受容体を指す言葉。
「オーファン受容体は宝の山のようなもので、
オーファン受容体が受け取る物質を調べることで、
まだ知られていない新しい物質が発見できる」
脳の抽出物中に含まれるたくさんの物質の中から、
あるオーファン受容体に結合する物質として発見されたのが「オレキシン」。
オレキシンは、脳の中心部分に位置する外側視床下部で作られる神経伝達物質。
視床下部という場所は、食欲に関与している場所、
脳にオレキシンを投与するとマウスの食欲が増し、
空腹時にオレキシンの産生量が上がったりすることから、
最初は食欲に関係する物質だと思われていた。
「オレキシンを作る遺伝子を壊したマウスでも、
食べる量はあまり変わらず、痩せもしない。
神経細胞で発見される物質は、機能がなかなか特定できないものが数多くあり、
オレキシンもそのような物質の一つになってしまうのではないか」
そこで思いついたのが、夜間の行動を確認すること。
マウスは夜行性なので、夜間の行動を観察することで
異常が見つかるのではないかと考えた。
予想は的中し、暗視カメラで撮った映像に、
活発に動いていたマウスが突然動かなくなる様子が映っていた。
このマウスは、「ナルコレプシー」だと分かった。
ナルコレプシーは、日中に突然強い眠気が出現し、眠り込んでしまう睡眠障害で、
世界では2000人に1人、日本では600人に1人が罹患している。
ナルコレプシーは、オレキシンの欠乏によって引き起こされ、
オレキシンは覚醒状態を維持するのに重要な働きをしている。
分子レベルで睡眠の仕組みの一端が明らかになる画期的発見につながった。
「オレキシンは、睡眠の制御に大きく関わっている物質。
この発見によって、睡眠学が私の研究の大きな柱になった」
柳沢さんの研究は、オレキシン受容体に働きかけ、
オレキシンの作用を阻害する物質を有効成分とする睡眠薬の開発につながった。
この薬は、2014年11月に医療現場で使われ、効果を上げている。
◆「眠気」の正体はタンパク質のリン酸化?
分からないことばかりの睡眠の本質に迫るには、
睡眠に異常を起こす遺伝子を手掛かりにするしかないと考えた。
遺伝子をランダムに壊した大量のマウスを使い、1匹1匹の脳波を取って
睡眠に異常があるかどうかを調べた。
睡眠時間が極端に長く、覚醒している時間が短いマウスを発見し、
その特徴が代々引き継がれる「Sleepy(スリーピー)」という家系をつくった。
寝ても寝ても眠たいマウスSleepyを調べてみると、
体内の特定のタンパク質の特定の部位をリン酸化させる酵素「SIK3」を作る
遺伝子が変異していた。
◎フォワード・ジェネティクス
柳沢さんが行った、表に現れた特徴により個体を選抜して
その特徴の原因となる遺伝子を見つけていく手法は
「フォワード・ジェネティクス」と呼ばれている。
柳沢さんは、この手法によって、Sik3遺伝子のほかにも睡眠に関与する、
いくつかの重要な遺伝子を突き止めたが、
これは非常に手間と時間がかかる手法で、
その間に扱ったマウスの数は実に約8,000匹にもなった。
睡眠の仕組みにリン酸化が関わっているかもしれないと考えた柳沢さんは、
Sleepyの脳内で、どのくらいのタンパク質がリン酸化されているのかを調べた。
数多くのタンパク質のリン酸化が進んでいた。
Sleepyでないマウスについても、断眠させて眠い状態にして
タンパク質のリン酸化の状態を網羅的に調べた」
その結果、遺伝子の変異がない正常なマウスでも、
断眠させたマウスでは脳内にある多くのタンパク質のリン酸化が
進んでいることが分かった。
それらのタンパク質のうち、80種類がSleepy家系のマウスと共通するもの。
これらのタンパク質を、「睡眠要求指標リン酸化タンパク質(SNIPPs:スニップス)」
と名づけた。
このSNIPPsのうち、69種類は脳内の神経細胞のつなぎ目である
シナプスに存在するものだった。
なぜ、睡眠が必要なのかという問いに対し、
昔から考えられていた学説の一つに、「シナプスの恒常性説」がある。
この仮説は、覚醒状態が続いて高まったシナプスの結合強度が、
睡眠を取ることにより元の状態に戻り、恒常性が維持される。
「シナプスの恒常性説は、まだ証明されたわけではないが、
たくさんのSNIPPsがシナプスに存在することも、
シナプス恒常性説を前提に考えれば合理的に説明できる。
SNIPPsのリン酸化は、眠気の制御だけでなく、
睡眠の機能にも大きく関わっている可能性がある」
一方で、睡眠の制御の謎を解き明かすには、まだ相当時間がかかる。
「オレキシンは、“睡眠”と“覚醒”という状態を切り替えるスイッチの一部を
担っているが、そのスイッチは眠気と直接つながってはいない。
この研究の難しいところ。
眠気の正体は見えてきたが、“ししおどし”の原理のすべてが分かるまでの
道のりは長く、ようやく2合目か3合目あたりにたどり着いたところ」
◆睡眠脳波を手軽に測定したい。ベンチャー企業「S’UIMIN」の設立
ベンチャー企業「株式会社S’UIMIN」を設立、
睡眠障害の診療に貢献する取り組みも進めている。
厚生労働省の調査によると、睡眠で休養が十分にとれていないという人は
全体の21.7%に上り、増加傾向が続いている。
60歳以上では、3人に1人が睡眠問題に悩まされている。
この問題を解決するための第1歩は、睡眠を客観的に測定することであるが、
それはなかなかハードルが高い。
「睡眠中の脳波を測るためには、入院して、いろいろな機器を
体に取り付けて寝る必要がある。
日常とはまったく違う状態に置かれる訳で、
その人の本来の睡眠を測定しているとは言い難い。
眠りたいのに眠れない不眠を訴えている場合、
より眠れなくなってしまうので、この方法は使用できない実情がある。
より簡単に睡眠脳波を測定できるサービスを提供しようと、
S’UIMINを立ち上げた」
S’UIMINでは、自分で簡単に装着できて、
身に着けていることが気にならない脳波計を開発し、自宅で測定した
睡眠脳波を人工知能(AI)で分析する仕組みをつくろうとしている。
「50年ほど前、家庭用の血圧計が開発され、
それによって病院で測った血圧は普段よりも高めになることが分かり、
高血圧症の医療は根本から変わった。
これと同様のパラダイムシフトを睡眠の分野でも起こしたい」
S’UIMINは、2020年度中のサービス開始を目指している。
このサービスが広く利用されるようになれば、
睡眠障害を抱える人々の日常的な睡眠脳波が明らかになり、
睡眠医療が大きく変わるだろう。
同時に手に入る睡眠脳波のビッグデータで、
睡眠の新たな側面が分かるかもしれない。
健康のためには、「良い睡眠」を取ることが重要だといわれているが、
良い睡眠とはどういうものかは定義されていない。
睡眠脳波のビッグデータを解析して良い睡眠時の脳波の特徴量を
捉えることにより、良い睡眠の実体が見えてくる可能性もあるのだ。
睡眠の謎の解明や睡眠脳波を分析する仕組みの開発は、
あらゆる人のQOLの向上につながるものだが、
日本人の睡眠に対する考え方を変えられたら、と考えている。
「『睡眠負債』の考え方は、実は昔からあり、
ヨーロッパなどでは昼間眠かったら、『体調が悪い』と考えるが、
日本では電車内や会議中に居眠りしていても『普通』のことだと考える。
認識がまるで違っている。
睡眠の優先度が違う」
睡眠不足の体の中で何が起きているのか、
良い睡眠とはどういうものかを知ることで、
日本人の生活のリズムも変わってくるかもしれない。
「睡眠の仕組みが分かったとしても、睡眠不足を解消するには、
やはり、よく眠るしかない」
健康な生活のためには、意識の転換が必要であることを強調した。
◎柳沢正史(やなぎさわ・まさし)
文部科学省世界トップレベル研究拠点プログラム
国際統合睡眠医科学研究機構 機構長・教授
筑波大学医学専門学群・大学院医学研究科博士課程修了。
31歳で渡米、テキサス大学サウスウェスタン医学センター教授と
ハワードヒューズ医学研究所研究員を、2014年まで24年にわたって併任。
2001年~2006年 科学技術振興機構(JST)戦略的創造研究推進事業
ERATO「柳沢オーファン受容体プロジェクト」総括責任者。
2010年 内閣府最先端研究開発支援プログラム(FIRST)に採択、
筑波大学に研究室を開設。
2012年~ 文部科学省世界トップレベル研究拠点プログラム
国際統合睡眠医科学 研究機構(WPI-IIIS)機構長・教授。
2019年~ JST未来社会創造事業「世界一の安全・安心社会の実現」領域
研究開発課題「睡眠脳波を指標とする睡眠と運動の自己管理による健康寿命延伸」代表者。
紫綬褒章(2016年)、朝日賞(2018年)、慶應医学賞(2018年)、
高峰記念第一三共賞(2019年)、文化功労者(2019年)など受賞・顕彰多数。
趣味はフルート演奏